芦別高校の歴史

【芦別高校の生い立ち】

昭和16年、実科高等女学校として誕生した芦別高校。学校が作られた経緯や時代背景を探ってみました。

1.町立芦別実科高等女学校時代(昭和16年3月~昭和18年3月)
 芦別高校は、昭和16年3月から昭和18年3月までの「町立芦別実科高等女学校」を振り出しに、学校としての歴史をスタートさせました。当時の様子を、三十年史では次のように伝えています。

■昭和16年ごろの芦別の状態
 軍需景気は産業の基底を著しく拡大し、町勢の進展を来した。軍需景気によって真先に回復の兆を示したのは石炭産業である。 ・・・<中略>・・・ 炭鉱の発展に伴って昭和11年に人口12,058人、戸数2,087戸、昭和15年には17,011人、戸数2988戸、この結果種々の施設は急速に拡大された。

■町立芦別実科高等女学校の創設
 教育施設も炭鉱の発展に伴って西芦別小学校が開設され、炭鉱の急速な発展は必然的に学校の増設を余儀なくされた。これに伴い上級学校への通学者は男子は主として滝川中学、深川中学、札幌一中、札幌二中、北海中学校等に学び、女子は滝川高女、砂川高等家政女学校、富良野実科高等女学校に通学していたのである。
 かくて上級学校入学者が次第に増加するにつれ、中等教育の必要性が高まり、従来の青年学校女子部において行っていた実業補習教育を拡充し、昭和16年3月芦別村立芦別実科高等女学校が設立され、芦別尋常高等小学校に併置されることになった。

■芦別実科高等女学校の創立
 女子教育に対する一般の認識が進むに従って、教育施設設置の要望は年々大きくなり、昭和16年2月村会で実科高等女学校の設置が可決されて以来、関係方面への積極的な働きかけにより、3月18日芦別国民学校に併置が認められ3月18日芦別尋常高等小学校佐々木久五郎氏が校長兼任を命ぜられ開校の運びとなった。4月5日、希望に胸ふくらませた62名の本科第1学年の入学を許可し、4月22日初めて開校式を挙げたのである。 ・・・<中略>・・・ 教育内容は、家政的実科を主とするものであったので、一般家庭からも歓迎され、芦別地方の各集落はもとより、隣接町村からも入学者があった。特に一回生は年齢の不同が特徴であった。
 昭和17年3月22日には第1回卒業式が行われ、58名が晴れて卒業生となる。


 このように、戦争による石炭の需要増加が直接的なひきがねとなって、芦別の基盤産業であった石炭産業が発展し、教育のニーズが高まっていた中で実科高等女学校が設立となりました。芦別の炭鉱の本格的な開発は昭和の初頭で、空知地区の中では後発の方にあたります。明治期の北海道開拓当初から開発されてきた夕張や三笠などの南空知の産炭地と比較すると歴史が浅いのが特徴です。

 

<資料>
■創立当初の職員構成
 校長 : 1名
 教諭 : 2名
 嘱託職員 : 5名  (計8名)

■校舎
 芦別国民学校に併置し、裁縫教室1(40坪)、職員室1(6坪)を専用とし、他に音楽室、作法室、体操場を共用として借用
 昭和17年度にさらに裁縫室1(30坪)を借用

■教科・科目
 修身、公民、国語(講読、作習文)、数学(代数、幾何)、裁縫(和裁、洋裁)、家事、手芸、図画、音楽、実業、体操、教育

■生徒概要(出身地方別)
 

年度 科別 学年 芦別村 赤平村 砂川町 美唄町 上川 石狩 十勝 留萌 その他
昭和16年度 本科 1学年 53 4 1 1 1 1 1 0 1 63
昭和17年度 本科 1学年 42 13 0 0 4 0 0 1 0 60
2学年 51 4 1 1 1 1 1 0 1 61

■校章(昭和16年8月26日制定)
■校旗(昭和16年12月2日制定)

2.町立芦別高等女学校時代(昭和18年4月~昭和25年3月)
 昭和18年より組織変更となり、芦別高等女学校となりました。
 30年史では次のように伝えています。

■組織変更
 昭和16年4月22日、63名の生徒と教師3名、嘱託4名で発足した実科高等女学校も、昭和18年4月1日、北海道芦別高等女学校に組織変更が認可され、それにともなって生徒数113名、教師4名、嘱託5名となる。・・・<中略>・・・ 2年間の実科高女から、ここに新しい芦別高等女学校として再出発することになった。4月5日、入学式(入学者55名)、対面式、始業式、教育後援会総会が行われ、4月7日より授業が開始された。昭和21年4月1日北海道庁成学第63号通牒、中等学校修業年限延長措置により修業年限3ヵ年の高等女学校となる。

■学級編成及び生徒数

年度 1年生 2年生 3年生 生徒数 学級数
昭和18年度 55 58 - 113 2
昭和19年度 58 49 - 107 2
昭和20年度 62 60 - 122 2
昭和21年度 62 57 17 136 3
昭和22年度 50 55 54 159 3
昭和23年度 41 31 - 72 2

■戦時色
 昭和6年の満州事変を契機に12年の日中戦争以後、戦時色を帯びだして数年間の学校教育は一面以前と似通った授業を続けつつも、軍国調の生活が一段と加わっていった。 ・・・<中略>・・・ 敗戦近くの1、2年は相次ぐ応召等による労働の不足をカバーすべく、勤労動員はますます強化され、6月1日より10月末日まで援農動因を実施することとなり、6月10日、野花南、丸山、北林方面に28名合宿、長期援農動員態勢に女子も参加しなければならない状態になった。昭和19年ともなると、勤労即教育となり、常時勤労動員、非常勤労に出勤。20年に入り本土爆撃がいよいよ熾烈化し、一時授業停止命令が出され、ここに教育の機能は完全に停止することになった。

■当時の学校生活
 昭和18年3月22日、実科高等女学校本科第1回卒業生54名を送り出し、3月25日初めて試験が行われるようになる。学科と面接で約1倍強の志願者になる。この入学試験もやがて口頭試問と身体検査だけになり、特に身体検査に重点が置かれた。
 戦雲急を告げるに従って、学校生活も大きく変わり、神社参拝、時局講話、町葬参列に明け暮れはじめる。また「英語」は敵国語として廃止されたのもこの頃である。銃後活動も活発になり、出征遺家族の家への援農などは長期にしかも分宿して行われるに至った。また援農先において町内防空演習に参加するなど、援農即実戦態勢の状態であった。

■芦別高等学校への転換
 学校教育法の施行(昭和22年3月31日)により、「高等学校の修業年限は3年」と規定された第46条に則って、昭和23年1月に新制高等学校設置基準が公布されて間もなくの昭和23年4月1日、北海道にも新学制の実施が始められた。それに従って、従来の高等女学校は高等学校に変更、進学を希望する者は2、3年に進み、ここに新制高校としての編成が成立し、実科高女以来組織変更による芦別高等女学校の7年間にわたる女子のみの中等教育の場としての歴史を閉じることになる。

*当時の様子*

 学芸会(山椒太夫) 昭和21年10月


 実習園での収穫 昭和21年10月

 陸上部全道出場 昭和22年

 ひなまつり(全校会食) 昭和22年3月

高等女学校校舎平面図(昭和16年~昭和24年)
 芦別高等尋常小学校に併設されていた頃の校舎平面図です。
 青色の文字の部屋は尋常小学校の教室、赤色の文字の部屋は高等女学校の教室、尋常小学校との共用教室です。